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神戸地方裁判所 昭和45年(ワ)109号 判決 1977年12月21日

原告

下村愛子

ほか一名

被告

神戸市

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

一  当事者の求めた裁判

(一)  原告ら

1  被告は原告下村愛子に対し、金二、七九四万円およびうち金三〇〇万円に対する昭和四一年八月一八日から、うち金二、二四四万円に対する昭和五二年九月二四日から、うち金二五〇万円に対する昭和五二年一二月二二日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は原告下村澄子に対し、金三三〇万円およびうち金三〇〇万円に対する昭和四一年八月一八日から、うち金三〇万円に対する昭和五二年一二月二二日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  仮執行の宣言。

(二)  被告

主文同旨。

二  当事者の主張

(一)  請求原因

1  原告下村澄子(以下原告澄子という)、同下村愛子(以下原告愛子という)は次の交通事故によつて傷害を受けた。

イ 日時 昭和四一年八月一七日午後一時三五分ごろ

ロ 場所 神戸市長田区御屋敷通二丁目神戸市営バス西代停留所から約三〇メートル南、西代踏切付近路上を北進中の神戸市営バス車内

ハ 被告車 車種神戸市営バス(登録番号兵二あ三二―三〇)

運転者 訴外三浦善治(以下訴外三浦という)

ニ 事故の状況 原告澄子は、前記路上を走行中の被告車に乗客として乗車し、運転席の後部座席最前列の座席横の通路上に、右最前列座席の肘掛に掴つて進行方向に背を向けて立つていたところ、被告車を運転していた訴外三浦が急ブレーキをかけたため、投げ出され、まず運転席の後部鉄柵で腰部を強打し、その反動で次に右座席肘掛部で下腹部を強打した。当時原告澄子は妊娠八か月で、原告愛子が原告澄子の胎内にあつた。

ホ 傷害の内容 (1)原告澄子 腰部、下腹部打撲傷

(2)原告愛子 脳性小児麻痺

原告澄子は昭和四一年九月二三日原告愛子を出産したが、前記(1)の傷害により、原告愛子は仮死状態で出生し、そのため脳性小児麻痺を遺した。

(3)原告愛子の治療期間

昭和四一年九月二四日より同年一〇月一四日まで(二一日間)神戸大学医学部付属病院小児科入院。

昭和四一年一〇月二〇日より同年一二月二七日まで(実診療日数六日間)右病院通院。

昭和四四年一月一〇日より岩出整肢園に入園治療中。

2  責任原因

被告は被告車を保有し、自己のために運行の用に供していたものであるから、自賠法三条により、原告らの被つた損害を賠償する責任がある。

3  損害

イ 原告愛子の損害 金二、七九四万円

(1) 逸失利益 金二、二四四万円

原告愛子は、前記脳性小児麻痺によつて全生涯にわたり、その労働能力のすべてを喪失し、その稼働可能時期である一八歳から六七歳までの得べかりし利益を喪失するから、一八歳から一九歳時の女子労働者の平均年収額を昭和五〇年賃金センサスにより算出し(72,900円×12+122,300円=997,100円)、その一〇パーセントを加算した金額について、年五分の中間利息を控除して、昭和五二年九月二四日における現在値を算定すれば、逸失利益は金二、二四四万円となる(997,100円×1.1×20.416=22,441,829円)。

(2) 慰藉料 金三〇〇万円

(3) 弁護士費用金二五〇万円

ロ 原告澄子の損害 金三三〇万円

(1) 慰藉料 金三〇〇万円

(2) 弁護士費用 金三〇万円

4  結論

イ 原告愛子は前記3イの(1)ないし(3)の合計額金二、七九四万円と(1)の金二、二四四万円については昭和五二年九月二四日から、(2)の金三〇〇万円については不法行為の翌日である昭和四一年八月一八日から、(3)の金二五〇万円については判決言渡しの翌日(昭和五二年一二月二二日)から各支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

ロ 原告澄子は前記3ロ(1)(2)の合計額金三三〇万円と(1)の金三〇〇万円については不法行為の翌日である昭和四一年八月一八日から、(2)の金三〇万円については判決言渡しの翌日(昭和五二年一二月二二日)から各支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(二)  請求原因に対する認否

1  請求原因1項の事実中、イ、ロ、ハの各事実は認めるが、ニ、ホの各事実は争う。訴外三浦は、本件事故当時、乗客約六〇名を乗せて被告車を運転し、本件事故現場付近の西代踏切りにさしかかり、一たん停車した後、時速約五キロメートルないし一〇キロメートルで右踏切りを渡りきつたところ、突然被告車の前方を東から西に横切る乗用車を認め、急停車の措置をとつたけれども、当時被告車に乗客として乗車していた原告澄子は格別苦痛を訴えるところがなかつたのである。

2  請求原因2項の事実中、被告が被告車を保有し、自己のために運行の用に供していたことは認めるが、その余は争う。

3  請求原因3の事実は争う。

(三)  抗弁

1  示談契約の成立について

仮に本件事故について被告が原告らに対し何らかの損害賠償の責任があるとしても、被告は、原告澄子の損害については同原告との間において、原告愛子の損害については同原告の親権者母である原告澄子、親権者父である下村友哉との間において、昭和四二年九月一六日、示談契約が成立し、同月二七日金銭の受授も了しているのであるから、原告らの本訴請求は失当である。すなわち、原告澄子と同原告の夫である下村友哉は、被告交通局事故係長に対し、原告澄子が本件事故で受傷し、その結果、新生児である原告愛子が脳性小児麻痺になつたと繰返し主張したので、被告交通局事故係長は、原告澄子夫婦と何回か示談交渉を持つたのであるが、最終的な話合いということで、昭和四二年九月四日、同月七日、同月九日、いずれも神戸市内の大橋五丁目にある喫茶店で話合いをしたすえ、ようやく同月一三日神戸市内の上筒井四丁目の喫茶店内で、原告澄子夫婦同席の上、被告交通局事故係長が局として「原告愛子が脳性小児麻痺であることも前提として、既払金を別に打切り示談金三八万円」を提案したところ、原告澄子は不満を述べたけれども、夫である下村友哉が事情やむをえずとして同原告を説得した結果、原告澄子も被告側の提案に同意し、ここにおいて、下村友哉が示談書(乙第三号証)に原告澄子と自己の署名をし、原告澄子の名下に同原告の印鑑を押印し、ついて自己の印鑑を持参していなかつたところから、同月一六日、右示談書の自己の名下に自己の印鑑を押印したものである。したがつて、仮に本件事故について被告が原告らに対し何らかの損害賠償の責任があるとしても、被告は、原告澄子の損害については同原告との間において、原告愛子の損害については同原告の親権者母である原告澄子、親権者父である下村友哉との間において、昭和四二年九月一六日、示談契約が確定的に成立したものである。

2  消滅時効について

原告らは、当初原告愛子については金八六三万円の、原告澄子については金二二〇万円の損害賠償を請求していたが、昭和五二年七月一八日付準備書面に基づいて請求を拡張した上、原告愛子については金二、七九四万円の、原告澄子については金三三〇万円の損害賠償を請求するに至つたが、右請求の拡張部分は既に時効により消滅している。

(四)  抗弁に対する認否

1  示談契約の成立について

被告主張の日にその主張するような示談が成立したことは否認する。原告澄子は、夫である下村友哉とともに昭和四二年九月一二日神戸市内の上筒井四丁目の喫茶店で被告交通局事故係長と示談交渉をした際、被告側から示談書(乙第三号証)の呈示を受けたが、原告澄子としては到底納得できるものでなかつたから、あくまでも拒否したけれども、夫である下村友哉は、被告側の示談の提案に応じ、右示談書に自己の署名をし、その名下に自己の印鑑を押印した。その後被告交通局事故係長は、同月一五日、原告澄子の入院先の長田病院に訪れ、右示談書を呈示して示談に応ずるよう求めたが、原告澄子はこれを拒絶した。しかるに夫である下村友哉は、同月二三日、原告澄子から銀行預金の払戻しのため預つていた原告澄子の印鑑を使用して委任状(乙第一号証)を作成したうえ、前記示談書(乙第三号証)に無断で原告澄子の署名をし、その名下に預つていた同原告の印鑑を勝手に押印したものである。したがつて、原告澄子と被告との間においては、原告澄子の損害についてはもちろん、原告愛子の損害についても何らの示談契約も成立していない。もつとも、原告愛子の親権者父である下村友哉と被告との間においては、原告愛子の損害について、被告主張のような示談契約が成立しているけれども、右示談契約は、原告愛子の親権者母である原告澄子の意思に反してなされたものであつて、被告はこのことを知つていたものであるから、民法八二五条但し書により、その効力を生ずることはない。

2  消滅時効について

被告の消滅時効の主張は争う。損害賠償の請求額を訴訟中に増額しても、それは同一の請求の範囲を拡張したもので、新たな請求権の行使ではないから、増額部分だけが独立して消滅時効にかかることはない。

三  証拠〔略〕

理由

一  本件事故の発生について

請求原因1項の事実中、イ、ロ、ハの各事実は当事者間に争いがなく、右事実に成立に争いのない甲第一号証ないし第三号証、第五号証ないし第七号証、第九号証ないし第一一号証、第一三号証ないし一九号証、証人小阪一郎の証言により真正に成立したと認める乙第四号証、証人三浦善治、同谷河清司、同小阪一郎、同植田小夜子の各証言、原告愛子法定代理人下村友哉、原告愛子法定代理人兼原告下村澄子(一、二回)各本人尋問の結果および鑑定人西村周郎の鑑定の結果ならびに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。すなわち、訴外三浦は、本件事故当時、乗客約六〇名を乗せて被告車(神戸市営バス)を運転し、神戸市営バスの八系統である始発の月見山停留所から終着の三宮停留所に進行中、本件事故現場付近の山陽電気鉄道株式会社軌道の西代踏切りにさしかかり、一たん停車した後、時速五キロメートルないし一〇キロメートルで南から北に右踏切りを渡りきつたところ、右前方の大型乗用車の陰から突然被告車の前方を東から西に横切る小型乗用車を認め、急停車の措置をとつて衝突の危険を回避した。当時、原告澄子は妊娠九か月の原告愛子を胎内にして、被告車に乗客として乗車し、運転席と乗客の坐席の最前端との空間に進行方向を背にして立ち、吊皮を手にしていたが、急停車の衝激と他の乗客の躯におされて、乗客の坐席の肘掛けに下腹部を打つた。訴外三浦は、被告車内乗客の安全を確認したところ、原告澄子がどこかを打つたようであるという他の乗客からの連絡があつたので、うずくまつている原告澄子の傍に行つたが、格別苦痛を訴える様子ではなかつたところから、原告澄子に坐席にすわつてもらつて、終着の三宮停留所に向つて出発した。ところが三宮停留所に行く途中の湊川公園停留所に着いたところ、原告澄子が痛がつているようであるという他の乗客からの連絡があり、その様子を見たところ、原告澄子が額に汗をかき、前かがみになつて苦痛をこらえているようであつたので、他の乗客全員に下車してもらい、当時被告車の後部に乗客として乗車していた原告澄子の夫である下村友哉とともに、原告澄子を付近の吉田病院(神戸市兵庫区福原町)につれて行つた。訴外三浦は、被告交通局事故係とともに、同病院で原告澄子に診察を受けてもらつたところ、レントゲン写真の結果では異常は認められないが、妊産婦であるから心配であるならば産婦人科で診てもらつたらどうかという説明であつたので、原告澄子の希望する東本病院(神戸市長田区細田町)で再度診察を受けるため、右吉田病院を出発したが、その途中、原告澄子が大丈夫であるから東本病院に行かなくともよい帰宅したいというので、原告澄子をその自宅まで送りとどけた。原告澄子は、翌昭和四一年八月一八日と同月一九日の両日、右東本病院で本件事故により腰部、腹部を打撲したとして診察を受けたが、同病院では弛緩性出血兼心不全の病名で診断を下し、同原告が妊娠中であるところから、児心音聴取、血圧測定などしたけれども特記所見はなく、婦人科受診を指示した。原告澄子は、同月二九日、産婦人科である伊集院医院(神戸市長田区西代通)に赴き、本件事故により腰部、背部を打撲し、吉田病院でレントゲン写真を撮影してもらつたが異常がなく、自覚症としても大したことでないが、腰部、背部が痛いと説明したので、同病院では右腰部および背部打撲症の病傷名を付したけれども、腰部打撲症の治療は行なわず、産婦人科医であるところから同原告を産婦人科的に診察したが異常を認めなかつた。原告澄子は、自宅において、同年九月二三日午前一〇時ごろから分娩第二期が始まつたが、胎児の頭部が見えてから陣痛が二〇分に一度の割合で発現する陣痛微弱の状態が続き、腰が痛くて力が出ないと苦痛を訴えたけれども、同日午後〇時二〇分、原告愛子を出産した。原告澄子は、前記のとおり、同年八月一八日と同月一九日の両日、東本病院で受診したものの、その後同病院に通院することがなかつたところ、同年九月二三日原告愛子を出産してから全身倦怠を訴え、同月二五日、同病院で受診し、脈搏正常、意識障碍なく、腹部にも特記所見はなかつたけれども、同日より同月二八日まで同病院に経過観察のため入院し、同病院を退院してからは受診することなく経過したが、同年一〇月一二日、一五日、二七日の三回同病院で受診し、鎮痛剤の注射を受けたものの、その間特記所見を認めなかつた。原告澄子は、また、同年九月二七日から同年一〇月一日まで益子産婦人科医院に骨盤結締織炎の病名で入院治療を受け、同年一〇月一八日から同年一二月一四日まで瀬川外科において、本件事故により背部、腰部、腹部を強打したとして、右下肢後側のシビレ感を訴え、背部および腰部打撲傷兼腰椎椎間板ヘルニヤの傷病名で通院治療を受け、さらに昭和四二年七月二九日から同年八月一〇日まで相信病院において、本件事故により下腹部、腰部を打つたとして、腰椎椎間板ヘルニヤの疑と腰痛症の傷病名で入院治療を受け、同年七月二八日にも神戸市立西市民病院(もと神戸市職員厚生病院)において、本件事故により腰、背中、下腹部を打つたとして、椎間板ヘルニヤの疑で診察を受けた。原告愛子は、前記のとおり、昭和四一年九月二三日午後〇時二〇分原告澄子の胎内から出産したが、出産時仮死状態が一時間一〇分続き、痙攣発作が頻発したので、同月二四日神戸大学医学部付属病院で診察を受け、新生児痙攣(頭蓋内出血の疑)の病名で同日より同年一〇月一四日まで同病院で入院治療を受けたところ、その間痙攣発作は全く起らず、順調に経過したので同月一四日退院した。原告愛子は、チアノーゼ発作が起るとして、同年一〇月二〇日、同月二七日、同年一一月七日、同月二六日、同年一二月二二日、同月二七日、同病院で通院治療を受けた後、昭和四二年一月七日、神戸中央市民病院において診察を受け、出産脳障碍の病名で同月二七日まで通院治療を受けた。原告愛子は、その後重症心身障害者施設である岩出整肢園(和歌山県那賀郡岩出町)において訓練を受けたが、昭和五〇年七月現在の知能発達の障害の程度は、自己の名前、年齢はいえるが母親の名前はいえず、一桁の計算ができないし、知能の程度は小学校一年生以下であり、運動障害の程度は、両側上下肢に不全麻痺を認め、とくに右側に著明であり、右側の腱反射は亢進し、動作は緩慢であつて、いわゆる脳性小児麻痺が存在する。以上のとおり認めることができる。原告愛子法定代理人下村友哉、原告愛子法定代理人兼原告下村澄子(一、二回)各本人尋問の結果中、右認定に反する部分は信用できないし、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

二  本件事故と原告愛子のいわゆる脳性小児麻痺との因果関係について

前記甲第一号証ないし第三号証、証人植田小夜子、同西村周郎の各証言および鑑定人西村周郎の鑑定の結果によれば、次の事実が認められる。すなわち、原告愛子における知能の発達障害、運動障害(いわゆる脳性小児麻痺)の発現機序については、現在原告愛子には運動ならびに知能発達の障害が見られるが、四肢の筋肉、骨などには異常が認められず、これら二つの障害はともに脳の異常に起因することが明らかであるところ、このような知能発達の障害、運動の障害は、脳炎、髄膜炎、外傷、脳血管傷害などの生後に発生する脳の疾患によつても惹起するけれども、本件においては、原告愛子の出産時の仮死状態以外には、他の脳疾患に罹患していない。したがつて、本件における原告愛子の知能発達、運動の障害の原因としては、出産時に見られた仮死状態を第一に考慮する必要がある。脳は体の他の部分の組織と異り、酸素欠乏に対する抵抗力が極めて小さいので、仮死状態では呼吸運動がなく、酸素が充分には脳に送られないので、後に知能発達ならびに運動の障害を残す程度の脳の傷害が比較的容易に惹起され得る。本件においては、一時間余りの仮死状態が存在したのであるから、脳性小児麻痺の原因となる脳傷害が発生する可能性は大であつたと考えられる。また、知能発達ならびに運動の障害の原因としては、分娩時の直接の脳の傷害がある。分娩のさいには、胎児は狭い産道を通るので、周囲よりの圧迫のため脳が傷害される場合があり、本件においては、知能、運動の障害が一次的に発生した脳傷害に起因する可能性も否定することはできない。そして、本件における原告愛子の仮死状態ならびに一次的脳傷害の発現機序については、新生児の仮死の発生は、胎盤の異常、母体の血圧の低下など数多くの原因が挙げられているが、一方遷延分娩(長時間を要する分娩)も、仮死の原因の一つとして挙げられている。本件においては、原告愛子の分娩は、遷延分娩であつたと考えられ、仮死状態が発生する可能性はかなり大であつたと考えられる。また産道通過のさいに発生する脳の損傷も、遷延分娩のさいに多く見られるとされているところからすると、本件においては、分娩の経過中に、脳の傷害が発生し、その結果、仮死状態となつた可能性も存在する。ところで、本件における遷延分娩の発現機序については、分娩が始まり新生児が生まれるまでを分娩第一期、第二期に分ち、第一期は胎児の頭部が僅かに骨盤入口に進入するところまでであり(胎児の頭部は外から見えない)、その後第二期となり、胎児の頭部は前進を始めるが、正常の場合には、その前進は子宮の収縮(陣痛)と腹圧とにより起こり、第二期における陣痛は著しく強くなり、通常一分以下の間隔で発来し、胎児の頭部は陣痛が起こる度に下降し、一方腹圧はほとんど反射的に現われ陣痛に協力し、そして胎児が生まれるものであるところ、本件における分娩の状況については、分娩第二期が一時間半も要し、経産婦としては長過ぎ、遷延分娩であつたといえるし、しかも胎児の頭部が見えてから陣痛が二〇分に一度の割合で発現するという陣痛微弱の状態が続いたのである。本件において何故分娩第二期が長くなつたか、その理由を詳細に知ることはできないが、次のように推測することは可能である。すなわち、分娩は主に子宮筋の収縮により進行するが、腹圧もそれに協力するわけであり、腹圧なくしては正常の分娩は成立しない。そして腹圧には随意的なものもあるが、反射的に加わる腹圧もある。原告澄子は腰が痛くて力が出ないと苦痛を訴えていたのであるから、実際に腰痛があれば意志をもつて腹圧を加えるのが困難な場合もあり得るし、一方反射的に加わる腹圧であるが、これは骨盤に分布する神経を通り、脊髄を上行し胸神経を経て腹筋に行く神経経路を介しての反射によるものと考えられているが、もし腰部の傷害によりこの反射の経路が障害されておれば、反射的に起こるべき腹圧も充分には発現しないこともあり得ると考えられる。このような理由により、もし充分な腹圧が得られなかつたとすれば、胎児の頭はすみやかには進行せず、ついには子宮筋の疲労が起こり陣痛微弱の状態となり、ひいては分娩第二期が延長することもあり得ると考えられる。しかし、本件においては、かかる一連の現象が発生したという確証はない。その可能性を否定できないというにとどまる。以上のとおり認めることができる。

三  示談契約の成立について

成立に争いのない乙第二号証の一、原告愛子法定代理人兼原告下村澄子本人尋問の結果(二回)によれば、乙第一号証、第三号証のうち原告澄子作成部分の原告澄子名下に押印されている印影がいずれも同原告の印鑑によるものであることが認められるから反証のないかぎり、いずれも真正に成立したものと推認することができ、原告愛子法定代理人下村友哉本人尋問の結果によれば、乙第三号証のうち下村友哉作成部分が真正に成立したものと認められるところ、右乙第一号証、第二号証の一、第三号証、成立に争いのない乙第二号証の二、前記乙第四号証、証人小阪一郎の証言によれば、次の事実が認められる。すなわち、原告澄子と同原告の夫である下村友哉は、昭和四十二年三月ごろから公明党の森脇市会議員を交え、あるいは助産婦や医師と同道して、被告交通局事故係長である小阪一郎に対し、原告澄子が本件事故で受傷し、その結果、新生児である原告愛子がいわゆる脳性小児麻痺になつたと主張し、原告澄子、同愛子の被つた損害について、円満解決したい旨の示談を申入れるところがあつたので、小阪一郎と原告澄子夫婦との間に何回か示談交渉が持たれたのであるが、被告交通局としては、本件事故と原告愛子の脳性小児麻痺との因果関係に是認しがたいものがあつたけれども、既に原告らに対し示談内渡金などとして金一〇万円に近い金員を交付していたところから、既に交付した示談内渡金などのほかに本件打切り示談金として金三五万円を支払うことで解決することとした。そこで小阪一郎は、最終的な話合いということで、昭和四二年九月四日、同月七日、同月九日いずれも神戸市内の大橋五丁目にある喫茶店で原告澄子夫婦と会い、被告交通局の意向を伝えて話合いをしたところ、夫である下村友哉は被告交通局の提案に応じたけれども、原告澄子が反対したため物別れとなつたが、同月一三日、神戸市内の上筒井四丁目の喫茶店で原告澄子夫婦と会い、さきに被告交通局が提案した打切り示談金三五万円を金三八万円に増額したうえ、局として、「本件事故について原告澄子が負傷したこととその後出産した原告愛子が分娩障害のためか脳性小児麻痺になつたことについて、被告交通局が原告らに対し、既払いの医療費、付添婦料ならびに示談内渡金のほかに本件打切り示談金として金三八万円を贈ることで円満解決したから、今後いかなる事情が生じても双方一切異議の申立てをしない」旨記載した示談書(乙第三号証)を提示して、その旨提案したところ、原告澄子は不満の意を表明したけれども、夫である下村友哉が事情やむえずとして同原告を説得した結果、同原告も被告交通局の右提案に同意した。そこで下村友哉は、その場で右示談書に原告澄子と自己の署名をし、原告澄子の名下に同原告の印鑑を押印したが、たまたま自己の印鑑を持参していなかつたところから、同月一六日、自己の勤務先付近の喫茶店に小阪一郎を呼び寄せ、右示談書の自己の名下に自己の印鑑を押印した。そして同月二七日右打切り示談金の授受を了した。以上のとおり認めることができる。原告愛子法定代理人下村友哉、原告愛子法定代理人兼原告下村澄子(二回)各本人尋問の結果中、右認定に反する部分は信用できないし、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

四  むすび

以上のとおりであるから、原告澄子が本件事故により腹部打撲傷などの傷害を受け、かつ、本件事故と原告愛子のいわゆる脳性小児麻痺との間に、たとえ相当因果関係が是認できるとしても、原告澄子の損害については同原告と被告との間において、原告愛子の損害については同原告の親権者母である原告澄子、親権者父である下村友哉と被告との間において、前記認定のような示談契約が成立したものであつて、原告らは被告に対し、右示談契約に基づき、それぞれ原告らに対する打切り示談金三八万円以外は、その損害賠償請求権を放棄したものと解するのが相当である。もつとも、本件事故と原告愛子のいわゆる脳性小児麻痺との間に相当因果関係が是認できるとした場合、原告愛子の関係において、前記認定の示談契約による示談金は著しく低額であるということができるけれども、本件事故の態様と原告澄子の受傷の程度、本件事故と原告愛子のいわゆる脳性小児麻痺との相当因果関係の存否、示談契約成立の経過などについての前記認定事実に照らせばその示談契約の成立を否定し得ないというべきである。

よつて、原告らの本訴各請求は、いずれも理由がないから、失当として棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 阪井昱朗)

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